大寧寺の変とは?
中国九州地方の大大名だった大内義隆が、家臣の陶晴賢に自害へと追い込まれた事件。
新たに当主となった大内義長のもと、実権を握ったのは、変の首謀者・陶晴賢だった。
なお、その晴賢が1557年厳島の戦いで毛利元就に敗れると、大内氏の勢力は急速に落ち、中国地方の勢力図を毛利氏に塗り替えられる。
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【大寧寺の変:基本DATA】
◆年月日:1551年9月1日
◆実行者:陶晴賢
◆被害者:大内義隆/大内義尊
◆場所:長門大寧寺
◆意義:大内氏重臣の陶晴賢が下剋上を成功させ、次の当主には大内義長が就任、晴賢が実権を握るようになった
【大寧寺の変:流れ】
大内氏の重臣・陶晴賢。
若い頃は美少年として知られ、男色好みの強い主君・大内義隆に寵愛されていた。
当人は武闘派色が強く、1540~1541年の第一次吉田郡山城の戦いでは、毛利氏に攻め込んだ尼子晴久の撃退に活躍するなど名を馳せる。
しかし、その2年後の1543年に尼子晴久の出雲へ攻め込むと、大内軍は大敗を喫し(第一次月山富田城の戦い)、以降、主君の大内義隆は公家趣味に没頭するようになった。
次第に晴賢らの不満が高まっていき、義隆に重用されていた相良武任らの文治派と対立。
出仕をやめて謀反計画を立案すると1551年8月末、ついに富田若山城で挙兵する。
共に動いたのは内藤興盛や杉重矩らの武断派武将だった。
8月29日には大内氏の本拠地・山口へ入り、敵対する文治派の武将宅を襲って回ると、元より軍事力を喪っていた大内義隆は逃亡するほかなく、避難先の長門大寧寺へ。
9月1日、自害へと追い込まれた。
翌9月2日には、義孝嫡子の大内義尊も殺害され、ここに大寧寺の変が成就する。
なお、このとき大内氏のところに滞在していた三条公頼や持明院基規など、多くの公家も殺されている。
新当主には、かねてより大友義鎮と話し合って決めていた大内義長(義長は義鎮の実弟)が就任。
実権は陶晴賢が握った。
【関連武将】
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・陶晴賢
・大内義隆
・大内義尊
・内藤興盛
・杉重矩
・相良武任
・大内義長
・大友義鎮(大友宗麟)
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