内藤興盛は、長門守護代の一族出身。
大内義興・大内義隆のもとで家老を務め、義興の上洛にも従軍するほか、大内氏の合戦で活躍する。
陶晴賢が大内義隆を討った下剋上【大寧寺の変】では、中立の立場を採り、興盛本人は事件から3年後の1554年に死去。
娘の尾崎局は毛利隆元に嫁いで同家の跡取りとなる毛利輝元(豊臣政権の五大老)を産んだ。
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【内藤興盛の基本DATA】
◆生没年:1495-1554年
◆父:内藤弘春
◆母:――
◆妻:内藤弘矩(伯父)の娘
◆子:内藤隆時
◆子:内藤隆春
◆子:尾崎局(毛利隆元の妻)
◆孫:内藤隆世
◆主君:大内義興→大内義隆→大内義長
◆地位:長門守護代(大内氏重臣)
◆活動エリア:中国九州地方
【内藤興盛の生涯】
内藤家の発祥は定かではないが、南北朝時代に大内氏と争い、後に従属。
以降、長門(山口県)の守護代を務めている。
内藤興盛が、その座に就くまでの経緯はいささか複雑であった。
陶武護(陶晴賢の伯父)の讒言によって、伯父で当主の内藤弘矩とその嫡子・内藤弘和が大内義興に殺されてしまい、内藤家は一時期、御家断絶状態に陥ってしまったのだ。
それを復興させたのが内藤興盛の父・内藤弘春であり、興盛は、亡くなった伯父・弘矩の娘(つまり従姉妹)を正妻に迎えて、長門守護代を受け継いでいる。
そして生まれた興盛の娘は、毛利元就の嫡男・毛利隆元に嫁いでおり、毛利輝元を出産。
姻戚関係がまんま外交&政治に直結する――いかにも戦国期らしい複雑な家計図になるので、いったん簡略図で整理しておこう。
守護代とは、守護職を務める主君に代わり、現地を治める者。
内藤興盛の主君だった大内義興と義隆親子は、将軍家とも誼を通じて西国一の勢力を誇り、それぞれ5カ国・7カ国の守護職を兼ねていた。
◆大内義興は5カ国の守護
【周防・長門・豊前・筑前・安芸・※山城】
※山城は一時的
◆大内義隆は7カ国の守護
【周防・長門・豊前・筑前・安芸・備後・石見】
このうち内藤興盛が守護代だったのは長門の国であり、他に大内家にいたのが以下のようなメンバーである。
◆周防の陶晴賢
◆豊前の杉重矩
◆安芸の弘中隆兼
◆石見の問田隆盛
◆筑前の杉興運
こちらも文字だけだとイメージが湧きにくいので、ざっと地図と照らし合わせてみると
広大なエリアに渡って大内氏が支配していたことがわかる。
この大内氏の政治を決める評定衆には
陶隆満・杉重矩・内藤興盛・杉宗長・飯田興秀・弘中興勝・相良武任
といった者たちが名を連ねており、上記の守護代とほぼ一致していることがご理解できよう。
大名の中には直接、領土経営を担う【直務支配】をする者もいたが、大内義隆は【第一次月山富田城の戦い(1542-1543年)】で尼子晴久に敗北し、さらには跡継ぎ候補で養嗣子(甥)・大内晴持を海難事故で失ってから職務を放棄。
相良武任ら文治派(法律等で国を治める官吏タイプ)に政務を任せきりとなり、自身は公家趣味に没頭するようになった。
こうした状況に不満を盛ったのが陶晴賢や杉重矩である。
彼ら主導のもと【大寧寺の変(1551年)】を強行。
内藤興盛57歳のときであり、彼もまた義隆に愛想を尽かし、晴賢に協力したと見る向きもある。
陶晴賢が毛利元就・毛利隆元・吉川元春へ送った密書の中に、「杉重矩と内藤興盛と協力してクーデターを起こす」という文言があったからだ。
が、実際は事の成り行き静観しており、
・大内義隆は大寧寺にて自害
・その息子の大内義尊は殺害
という結末を迎えている。
ちなみに、陶晴賢が謀反を起こすという噂が大内義隆の耳にも届いていたというが、義隆は
『杉重矩と内藤興盛は加担しないであろう』
という呑気な見方をしていた。
さほどに本人の政治センスが鈍っていたか。
重矩と興盛が信用されていたか。
いずれにせよ、この【大寧寺の変】から3年後の1554年、内藤興盛は60才で亡くなり、同家の行く末はその嫡孫・内藤隆世に託された。
結果、毛利との処遇を巡って内藤氏の家中は大いに荒れるのである。
内藤興盛の娘・尾崎局が毛利隆元に嫁ぎ、興盛の息子・内藤隆春も毛利派に。
一方、孫の内藤隆世は陶晴賢派となる。
そして1555年、【厳島の戦い】へ突き進むのであった。
なお、興盛は文化人としての評価も高く、近衛尚通に『源氏物語』の外題(和書の表紙に貼られた短冊状の部分で中にタイトルが記されている)を依頼したという記録が残されている。
【内藤興盛の主な戦績】
※リンク先のある合戦は紹介ページへ飛びます
◆第一次吉田郡山城の戦い(1541年)
◆第一次月山富田城の戦い(1543年)
◆大寧寺の変(1551年)
【関連武将】
※リンク先のある名前は紹介ページへ飛びます(家族は基本DATAに)
・内藤隆春
・尾崎局(毛利隆元の妻)
・内藤隆世
・大内義興
・大内義隆
・大内義尊
・大内義長
・陶晴賢
・杉重矩
・弘中隆兼
・問田隆盛
・杉興運
・毛利元就
・毛利隆元
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大寧寺の変に興味あります。陶隆房の謀反に内藤興盛が反対しませんでした。ここで掲載された内藤家系図に興盛の孫娘が陶隆房の正室になっています。いつ頃でしょうか。また参考文献をおしえてください。
私は昨年「多々良大内義隆の天文廿年」を発表しました。
https://drive.google.com/file/d/1nBIqpMAkGWybCTaZo0TU_PWYJQBZdzWI/view?usp=sharing