織田信広とは:信長の兄、家康との人質交換で尾張に戻る

織田信広とは?

織田信長の兄。

父・織田信秀にとって長男にあたるが、側室の子だったため跡継ぎは信長に――されど父の信頼は厚かったようで安祥城の城主に就く。

これが災いとなり、今川家の太原雪斎に攻められ捕虜にされると、後に松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換で尾張に戻った。

信長に対しては一度謀反を企み、失敗。それを赦されると以降は織田家のために働き、重要な役割も担う。

天正2年(1574年)【長島一向一揆】との合戦中に討死した。

娘が丹羽長秀に嫁ぐ。

織田信広(信長の兄)敵に捕らわれ人質交換で戻った兄は謀反計画を企て

※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております

織田信広の基本DATA

父:織田信秀
母:不明

生没年:不明-1574年

活動エリア:東海地方

織田信広の生涯

側室生まれで母は不詳。

生没年も不明ながら、父・織田信秀の信頼は悪くなかったようで、安祥城(現・愛知県安城市)の城主を任されていた。

それが天文18年(1549年)頃のこと。

仮に年齢が信長の4~5才上だとすると、安祥城の城主になったのは二十歳前後であっただろう。

※信長は天文3年(1534年)生まれ

小豆坂の戦い

安祥城はもともと三河松平氏の拠点であり、織田家にとっては対今川の最前基地だった。

付近には岡崎城もあって、この付近で織田家と今川家のぶつかった【小豆坂の戦い】が行われている。

以下の地図をご参照いただきたい。

左から、
・清州城(黄色)
・安祥城(黄色)
・岡崎城(赤色)
・小豆坂古戦場(紫色)
となっており、安祥城はかなり三河側へ突出しているのがおわかりだろう。一番の危険地帯である。

実際、天文18年(1549年)3月に、安祥城は今川家・太原雪斎の攻撃を受け、11月に落城。織田信広は敵方の捕虜となってしまった。

このころ織田家には、松平家より強奪していた松平竹千代(徳川家康)がおり、両家の間で人質交換が行われ、信広も無事尾張へ戻ってきている。

清州城乗っ取りを画策

1551年に織田信秀が亡くなり、信長が跡を継ぐと、信広もこれに従った。

早い段階から織田家の跡継ぎは信長に決まっており、信広に不満はなかったのか?

というと、決してそうではなく、家督継承から5年後の弘治2年(1556年)、清州城の乗っ取り計画を画策している。

信広の背後にいたのが美濃の斎藤義龍だった。

斎藤義龍/wikipediaより引用

両者の作戦は
「斎藤家が陽動作戦で織田領付近まで出兵し、防御のために信長が出陣するとき信広軍が清州城へ入り、挟み撃ちにして城を乗っ取ろう!」
というものである。

しかし、敵(斎藤家)の動きがいつもと違うことに気づいた信長が、策を看破。清州城を固く閉ざして信広軍を入れさせず、その後、信長軍と小競り合いをした後、信広は諦め降伏した。

長島一揆勢との戦いで討死

信広が赦されたのは、謀反だらけの織田家で人材が不足していたからかもしれない。

その後、信広は公家や幕府に対しての「外交」という重要な役を任せられるだけでなく、軍事においても、浅井朝倉を追って比叡山を取り囲んだときに勝軍山城(京都市左京区)を任されたり、岩村城で武田軍を迎え撃ったこともあった。

天正元年(1573年)に信長と足利義昭が衝突したときには、名代として和睦も締結させている。

しかし、不幸はその翌年に起こった。
天正2年(1574年)、長島一向一揆との合戦である。

長島一向一揆勢は、木曽川・長良川・揖斐川いびがわが合流して伊勢湾に注ぎ込む「中洲」に拠点を構え、1570年から反織田として、織田包囲網の一角を担っていた。

手始めに彼等は信長の弟・織田信興を自害へ追い込み、その後、2度にわたる信長の侵攻を食い止める。
中洲にある長島城は水路に囲まれた天然の要害であり、織田軍も攻めあぐねていたのだ。

それまで柴田勝家が負傷したり、西美濃三人衆の一人・氏家卜全が討死したり、筆頭家老・林秀貞の跡取りである林新次郎が戦死したりしていた。

ところが1573年に風向きはガラッと変わる。

武田信玄が亡くなったのを機に、足利義昭を追放し、浅井長政、朝倉義景も打ち倒すと、後顧の憂いがなくなった信長は、1574年、織田家のほぼ全軍でもって長島へ進軍。
5つの城砦にターゲットを絞って、兵糧攻めに追い込むと、降伏を願い出た信徒らも射殺するなどして、泥沼の全面対決となった。

このとき両軍で激しい戦闘となり、織田信広も巻き込まれて命を落とした。

なお、信広の娘が織田家の重臣・丹羽長秀に嫁いでいることからも、信広が重用されていたことは窺える。
その娘は嫡男の丹羽長重を産んだ。

信長は、残った2つの砦を焼き討ちするなどして、亡くなった信徒は2万人にのぼる。

そのため後世、その残虐性がクローズアップされることもあるが、信徒を放てば、石山本願寺で再び敵兵となる可能性もあり、現地の支配者としては致し方ない部分もあったかもしれない。

実際、この後、伊勢での一向一揆は途絶えている。

合戦詳細は、以下の関連記事へ。

織田信広の合戦歴

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆小豆坂の戦い(1549年)
◆長島一向一揆(1570-1574年)

参考 小豆坂の戦い(安祥合戦)武将ジャパン 参考 長島一向一揆で2万人を虐殺!武将ジャパン

織田信広と関係の深い武将

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆織田信長
◆織田信秀
織田信興
織田信時
◆丹羽長秀
◆丹羽長重

織田信興とは:信長の弟、長島一揆勢に攻められ自害する

◆太原雪斎
◆斎藤義龍

参考 斎藤義龍武将ジャパン

関連or参考記事

参考 織田信長武将ジャパン 参考 織田信秀武将ジャパン

文:五十嵐利休(武将ジャパン
絵:小久ヒロ

参考文献

 

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