織田信興(おだのぶおき)とは?
織田信長の弟。
信長に敵対する親類勢が多かった中で、早くから信長に従う。
元亀元年(1570年)11月、長島一向一揆勢に攻められ、小木江城の天守で自害へ追い込まれた。
※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております
織田信興の基本DATA
父:織田信秀
母:不明
生没年:不明-1570年
活動エリア:東海地方
織田信興の生涯
通称は彦七郎。
生年も事績も多くが不明だが、『信長公記』には【長島一向一揆】に関連して数回登場する。
その内容をまとめると次の通り――。
長島一揆勢
長島一向一揆勢は、木曽川・長良川・揖斐川が合流して伊勢湾に注ぎ込む、中洲に建つ長島城を本拠地としていた。
以下の地図でご確認いただくと
赤色の拠点が、長島城のあった場所。
この城を中心として、一向一揆勢は周囲に十数ヶ所の城砦を設置している。
対して黄色い拠点(左)が織田方の小木江城であり、これを守っていたのが織田信興だ。
いわば対伊勢方面への「最前基地」という非常に大切な拠点であり、信長の信興に対する信頼度が見て取れるだろう。
※なお右側の黄色い拠点が清州城(このとき織田信長は岐阜城が本拠地だが参考のために掲載)
織田包囲網の中で
信興が、長島勢に攻められたのは元亀元年(1570年)11月のこと。
このとき織田家は大ピンチに陥っていた。
なんせ織田信長たち織田軍主力は石山本願寺と対決し(1570年8-9月)、ほぼ同時に浅井長政・朝倉義景に攻められ、さらにはそこに比叡山延暦寺まで加わって信長と敵対するなど(1570年9-12月)、
【第一次信長包囲網】
と呼ばれる苦境に立たされていたのである。
上記の合戦は、それぞれ以下のように呼ばれている。
◆1570年8-9月
石山本願寺を相手にした合戦
【野田城・福島城の戦い】
↓
◆1570年9-12月
浅井・朝倉・延暦寺と対峙した
【志賀の陣】
織田家と対決するにあたって、石山本願寺が要請したのが、この長島一向一揆勢の参戦呼びかけだった。
彼等の隣国かつ信長のお膝元である尾張を攻めさせたのだ。
そして、そのターゲットとなったのが織田信興の守る小木江城だった。
戦いは数日に渡り、信興も徹底抗戦した。
が、ついに城内への突入を許すると、「一揆勢の手に掛かって死ぬのは無念」として信興は天守に登って自害する。
★
その後の長島一向一揆については、天正二年(1574年)、信長による大虐殺が行われることで知られる。
ここだけ聞くと、虐殺を行う信長がいかにも残忍な権力者だが、実際のところ、
・先に攻撃を仕掛けたのは長島一向一揆
かつ
・それまで2度の合戦で織田家の親類や重臣が何人も殺されている
のであった。
もはや長島一向一揆は、民衆ではなく、立派な軍事的集団と見なせただろう。
実際、その中には、罪人や浪人も流れ込んでいたというから、気性の荒い連中も少なくなかったに違いない。
結果、真正面から織田家とぶつかり、三度目の対戦で潰されたのだった。
その合戦詳細は、以下の関連記事へ。
織田信興の合戦歴
※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます
◆長島一向一揆(1570-1574年)
参考 長島一向一揆武将ジャパン織田信興と関係の深い武将
※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます
◆織田信長
◆織田信秀
関連or参考記事
参考 織田信長武将ジャパン【参考文献】
コメントを残す