杉重矩は、豊前の守護代である杉伯耆守家の出身。
大内義興、義隆、義長三代のもとで重臣を務めた。
陶晴賢と共謀し、主家の大内義隆を死へ追い込み、自らも晴賢に追い込まれて自害する。
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【杉重矩の基本DATA】
◆生没年:不明-1553年
◆父:不明
◆母:不明
◆子:杉重輔
◆主君:大内義興→大内義隆→大内義長
◆地位:豊前守護代(大内氏重臣)
◆活動エリア:中国九州地方
【杉重矩の生涯】
杉重矩は豊前(大分県)の有力者で大内氏の守護代であった。
守護代とは、守護に代わって現地を治める者である。
主君の大内義隆は、
【周防・長門・豊前・筑前・備後・石見・安芸】
の7カ国で守護職を務めていたが、現実に各土地を治めているのは守護代や地元の国人であり、杉氏も同様に豊前(大分県)の有力者であった。
このころ他には、
◆周防の陶晴賢
◆長門の内藤興盛
◆安芸の弘中隆兼
◆石見の問田隆盛
◆筑前の杉興運
といった守護代が各地域に分布していた。
それが以下のマップの通りである。
こうしたケースは当時多々見られ、例えば織田信長なども斯波氏の守護代家であり、尾張一国を支配するようになってから岐阜や多方面へ展開を始めている。
なお、大名が直接、領国経営する「直務支配」に乗り出す者もいたが、大内義隆はその手法を取り入れていない。
それどころか公家趣味が高じて仕事を放棄。
政務をもっぱら相良武任ら文治派(法律等で国を治める官吏タイプ)に任せていた。
大内義隆が、やる気を失ったのは【第一次月山富田城の戦い(1542-1543年)】で尼子晴久に敗北し、さらにはその撤退時に跡継ぎ候補の養嗣子・大内晴持を海難事故で失ってからと目される。
こうした大内義隆の職務放棄や相良武任らの台頭に危機を抱いた陶晴賢が先導して、【大寧寺の変(1551年)】が勃発。
もともと晴賢とは不仲であった杉重矩もこれに同調してクーデターを起こし、大寧寺で義隆を自害に追い込み、その翌日、実子の大内義尊は殺害された。
※同じく大内家の重臣・内藤興盛は晴賢の下剋上に対して中立の立場をとっている
代わって当主に据えられたのが大友義鎮の実子・大内義長だった。
義長は、大内義隆の姉の息子でもあり、女系ながら血縁的には申し分なかった。
杉重矩の年齢は不詳である。
義隆の父・大内義興から仕えていたのである程度歳を取った老臣だったと目され、主君の義隆を廃して新たに大内義長を迎えたのも、国の行く末を案じていたからかもしれない。
しかし結局は陶晴賢と再び仲違いをして、天文22年(1553年)に自害へと追い込まれた。
陶は、杉重矩を【大寧寺の変】の首謀者とすることで、主家殺しの謗りを交わす狙いがあったとも見られる。
【杉重矩の主な戦績】
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・大寧寺の変(1551年)
【関係の深い武将】
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・陶晴賢
・内藤興盛
・弘中隆兼
・問田隆盛
・杉興運
・大内義興
・大内義隆
・大内義尊
・大内義長
・毛利元就
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