中国九州地方の有力一族【大友氏】と【大内氏】の血を引いた大内義長。
陶晴賢の謀略により大内氏第17代当主となるも、程なくして、晴賢が厳島の戦い(1551年)で敗死し、以降は毛利元就の侵攻を受け続ける。
毛利氏に対して抵抗を続けるも、力尽きて1557年に自害へ。
生年不明のため享年も不明。
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【大内義長の基本DATA】
◆生没年:不明-1557
◆父:大友義鑑
◆母:大内義隆の姉
◆兄:大友義鎮(大友宗麟)
◆主君:――
◆地位:大内氏17代当主
◆活動エリア:中国九州地方
【大内義長の生涯】
大内義長は生年不明ながら、中国九州地方で随一の有力一族である【大友氏】と【大内氏】の間に生まれた。
父は大友義鑑、母が大内義隆の姉。
後の大友氏宗主・大友義鎮(大友宗麟)は実兄となる。
1544年頃、当時、中国地方で最大の勢力を誇った大内義隆の猶子へ。
大内義隆は、義長にとっては叔父にあたり、大内氏の跡を継ぐ資格もあったが、その翌年の1545年、義隆に嫡子・大内義尊が生まれ、その可能性は一気に低くなる。
非常に微妙な立場に置かれた義長。
そこで利害が一致したのが、大内氏の重臣・陶晴賢だった。
義長を大内氏の新たな当主に据える――大友義鎮(大友宗麟)に対してその了承と取り付けた晴賢は1551年、クーデターを実行。
大内義隆を大寧寺で自害に追い込み、跡取りの大内義尊を殺害した。
※陶晴賢は当初、大内義尊を当主とする予定だったが、途中で大内義長に変更している
かくして大内氏第17代当主となった義長だが、その時代は長くは続かない。
原田氏(筑前)や吉見氏(石見)のみならず毛利氏(安芸)が離反。
特に、1555年【厳島の戦い】で毛利元就の奇襲を受けた陶晴賢が死亡すると、以降は大内氏の家勢も一気に落ち、毛利氏の侵攻を受けるようになる。
このとき毛利で大活躍したのが元就の次男・吉川元春、三男・小早川隆景だった。
そして1557年2月。
毛利氏の侵攻により本拠地・山口を追われた義長は長門の且山城へ逃れ、同年4月2日、長福院で自害し大内氏は名実ともに滅びた。
中国九州エリアの守護職を多く兼任してきた大内氏は、実のところ現地支配を守護代に委ねていて権力基盤が脆弱だったため、いったん崩れると相次いで離反されてしまうのだった。
【大内義長の主な戦】
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◆大寧寺の変(1551年)
◆厳島の戦い(1555年)
◆毛利との覇権争い(1555~1557年)
【関係の深い武将】
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◆大友義鑑
◆大友義鎮(大友宗麟)
◆大内義隆
◆大内義尊
◆陶晴賢
◆毛利元就
◆吉川元春
◆小早川隆景
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