織田信照とは:功績なく江戸時代まで生きた【天性魯鈍】な信長弟

織田信照(中根信照)とは?

織田信長の弟。

華々しい記録は【京都馬揃え】に参加したぐらいで、他には「城を落とされる」など。

「天性魯鈍ろどん(鈍くて愚か)の人なり」とまで書かれてしまう。

※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております

織田信照の基本DATA

父:織田信秀
母:中根七郎左衛門康友の娘

生没年:1546-1610年

活動エリア:東海地方

織田信照の生涯

織田信長の弟で、信秀の九男や十男とされる。

沓掛城の可能性

母は中根七郎左衛門康友の娘で、兄の織田信広と同じ、とも。

そうなると『信長公記』に「信広の弟」と記される織田信時とも同母兄弟の可能性が出てくる。

前述の通り「天性魯鈍ろどん(鈍くて愚か)の人」と書かれてはいるが(尾州府志)、特に信長から嫌われたという様子もなく、「連枝衆」として尾張にいた。

※連枝衆とは、信長と親類の中でも特に血縁の近い兄弟や息子たち

現・愛知県豊明市の沓掛城に住んでいたという記録もあり(尾張志)、1579年、同城主として知られる簗田広正が亡くなった後に入城した可能性がある。

沓掛城址/photo by Bariston wikipediaより引用

そんな信照のピークは天正9年2月28日の
【京都御馬揃え】
であろう。

京都御馬揃え

京都御馬揃えとは?

文字通り「馬を揃えて」市街を進むもので、早い話、
【軍事パレード】
である。

それを京都で行うのであるから、一定の権威・武力が無いと不可能であることはご想像できよう。

信長は1573年に浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、同年、武田信玄も病死。
1580年には本願寺とも和解(事実上の勝利)して畿内周辺を完全に安定させると、もはや天下統一は信長にとって現実的な目標となった。

そこで権威誇示と同時に、京都の市民や正親町天皇へのアピールとして行われたのが御馬揃えである。

織田軍の威容を伝えるため、以下のような編成でパレードは行われた。

【京都馬揃えの陣容】

◆一番部隊……丹羽長秀ほか
◆二番部隊……蜂屋頼隆ほか
◆三番部隊……明智光秀ほか
◆四番部隊……村井貞成ほか

 

◆織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎

 

◆公家衆……近衛前久ほか
◆旧幕臣衆……細川昭元ほか
◆九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆
◆十番部隊……柴田勝家・前田利家ほか
◆十一番部隊……お弓衆百人

 

【参考】

参考 京都御馬揃え武将ジャパン

織田一門の中で、中心は何と言っても織田信忠だ。信長の嫡男である。

その次に二男の織田信雄が来て、普通なら三男の織田信孝が来るのでは……と思う所にいるのが織田信包のぶかねである。

信包は、信長と母が同じ土田御前の可能性もある弟で、各地の合戦で活躍。
たとえば小谷城の戦いで浅井家が陥落したとき、逃げ落ちるお市と三姉妹(茶々・初・江)を保護したのもこの信包と言われる。

信孝の次にいる「織田信澄」は、信長に誅殺された織田信行の息子で、明智光秀の娘を娶っていた――。

かような特筆すべきエピソードの無いのが織田信照で、本能寺の変後、織田信雄に従って尾張奥城に入り、そして豊臣秀吉に落城させられている。

その後は織田信雄に再び仕えたと目され、慶長15年(1610年)に死亡。

『尾州府志』で「天性魯鈍ノ人ナリ」と評された。

織田信照の合戦歴

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆小牧・長久手の戦い(1584年)

織田信照と関係の深い武将

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆織田信長
◆織田信秀
◆織田信忠(信長嫡男)
◆織田信雄(信長二男)
◆織田信孝(信長三男)
◆織田信包(信長弟)
織田信広(信長兄)
織田信時(信長弟)
織田信興(信長弟)

関連or参考記事

参考 京都御馬揃え武将ジャパン 参考 織田信長武将ジャパン

文:五十嵐利休(武将ジャパン
絵:小久ヒロ

参考文献

 

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