織田信治とは:宇佐山城の戦いで森可成と共に散った信長弟

織田信治とは?

織田信長の弟。

織田信秀の七男あるいは五男とされ、野府城のぶじょう(野夫城)の城主となる。

元亀元年(1570年)森可成と共に宇佐山城の守備に就くも、浅井長政・朝倉義景に攻められ討死。

※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております

織田信治の基本DATA

父:織田信秀
母:不明

生没年:1545-1570年

活動エリア:東海地方

織田信治の生涯

側室生まれのためか、母は不詳。

1545年生まれは織田信長の1534年より11才歳下となる。

信治活躍の記録は少ないが、野府城(愛知県一宮市)の城主に就いていたという。

同城は、清州城と岐阜城の中間地点にあり、美濃攻略以前はそれなりに重要な拠点だったことが窺える。

※赤い拠点が斎藤家の岐阜城で、その下の黄色が野府城、そして清州城と続く

城主であること以外の功績は伝わっていないが、その最期は戦国武将としては華々しいものだった。

舞台は近江――。

【宇佐山城の戦い】と呼ばれる浅井朝倉連合軍との死闘である。

宇佐山城の戦い

元亀元年(1570年)9月。
越前の朝倉義景と北近江の浅井長政が挙兵し、近江坂本へ3万の兵を引き連れてやってきた。

そのころ織田信長は石山本願寺を相手に【野田城・福島城の戦い】を繰り広げており、近江の防御は手薄。
坂本にある宇佐山城を守っていたのが森可成であった。

森蘭丸(森成利)や森長可などを輩出した森家の長である。

森可成はわずか1,000程度の兵で、浅井朝倉連合軍に立ちはだかり、激戦を繰り広げる。

織田信治も同じく奮闘するも、大軍の前にはやはり歯が立たず、討死となった。

このとき青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八のほか、東美濃で武田信玄と対したときに敵の首を3つも取ってきた道家清十郎・道家助十郎という兄弟も討死している。

織田信治の合戦歴

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆志賀の陣&宇佐山城の戦い(1570年)

参考 志賀の陣&宇佐山城の戦い武将ジャパン

織田信治と関係の深い武将

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆織田信長
◆織田信秀
◆森可成

参考 森可成武将ジャパン

関連or参考記事

参考 野田城・福島城の戦い武将ジャパン 参考 織田信長武将ジャパン

文:五十嵐利休(武将ジャパン
絵:小久ヒロ

参考文献

 

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