織田秀孝とは:喩えようのないほど美しい顔を持つ信長の弟

織田秀孝(ひでたか)とは?

織田信長の弟。

領内で馬を走らせていたところ、織田信次(信長の叔父)の家臣に矢で誤射されて死亡。

『信長公記』では「喩えようのないほど美しい顔」だったと評される。

合戦などの活躍は記録されず。

※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております

織田秀孝の基本DATA

父:織田信秀
母:不明

生没年:1540頃-1570年

活動エリア:東海地方

織田秀孝の生涯

織田信秀の八男という説があるが、『信長公記』に基づけば織田信包おだのぶかねの兄(五男)あたりが適切。

その『信長公記』の中に、唯一にして強烈な秀孝エピソードが収められている。

顔を見て背筋が凍りついた

弘治元年(1555年)6月26日のことだ。

信長の叔父・織田信次が龍泉寺付近の庄内川で漁をしていると、一頭の馬が側を通りかかった。

騎乗の者は馬に乗ったまま、織田信次に挨拶もせず、そのまま走り去ろうとしている。周囲にはお伴の者もいない。

その無礼な態度にキレたのが信次家臣の洲賀才蔵すがさいぞうである。

才蔵は
「城主・信次様の前を、乗馬のまま走り去ろうとは不届き千万である!」
と言うと、にわかに矢を放つ。

矢は、不幸にも馬上の武者に命中。
鞍から転げ落ちたその顔を確認して、織田信次と須賀才蔵は背筋が凍りついた。

信長の弟・秀孝ではないか!

そのまま行方をくらましてしまった

白い肌に、あかい唇。
整った美麗な顔はどこまでも美しく、前述の通り「喩えようがないほど」と信長公記にも記されている。

信長には、絶世の美女としてお馴染み「お市の方」が妹にいたが、もともと美形な一族だったのであろう。

それにしても不幸だったのは織田信次である。

彼の受け持つ守山城がいかなる立地にあったのか?
位置関係を把握するため、まずは地図をご覧いただくと……。

・黄色(左)清州城
・黄色(右)末森城
・赤色……守山城
・紫色……龍泉寺

織田信次の守山城(赤)は、重要拠点の清州城(黄色左)と末森城(黄色右)に挟まれるようにして建っているのがおわかりだろう。

今回の事故が発生した龍泉寺近くは守山城から北東へ約2kmの距離。
信次は、城にも戻ることができず、そのまま行方をくらましてしまったという。

さほどに信長を怖れていたのか。
だとすれば信次の人の才能を見抜く目も相当なものであるが……。

周囲を焼き尽くしたのは弟・信行だった

信次に対し、ただちに行動を起こしたのは信長……ではなく、織田信行(織田信勝)だった。
後に、兄信長を排除しようとして、逆に謀殺されてしまった信長の同母弟である。

参考 織田信行武将ジャパン

信行は、信次の本拠地・守山城に迫ると、周囲を焼き尽くし、同城を【はだか城】にしてしまったのだ。

うつけ者の兄に対し、品行方正で家臣の評判も良かった信行の意外な一面である。

対して信長は意外なほど冷淡に、部下の犬飼内蔵に向かってこんな言葉を投げている。

「一族の人間である秀孝が、伴も連れず単騎で走り回るなど呆れた所業である。たとえ生きていても許しがたい」

そして清須へ戻っていった。

なお、【お伴のいない単騎駆け】を呆れた所業だとしてブチ切れていた長自身が、実はこのとき単騎駆けで事故現場を目指していたという。

「おいおい、アンタもやーん!」
とは、怖すぎて誰も突っ込めなかったのであろう。

普段から信長が騎馬訓練で乗馬に慣れていて当たり前の後継だったので、著者の太田牛一も書いていて気づかなかったのか。
謎である。

織田秀孝の合戦歴

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆不明

織田秀孝と関係の深い武将

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆織田信長
◆織田信秀
◆織田信次
◆織田信行
◆須賀才蔵
織田信時

関連or参考記事

参考 織田信長武将ジャパン

文:五十嵐利休(武将ジャパン
絵:小久ヒロ

参考文献

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA