織田秀成とは:信忠に従軍し長島合戦で討死にした信長弟

織田秀成とは?

織田信長の弟。

天正2年(1574年)長島一向一揆の戦いで戦死。

このとき信長兄の織田信広も討ち死にしている。

※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております

織田秀成の基本DATA

父:織田信秀
母:不明

生没年:不明-1574年

活動エリア:東海地方

織田秀成の生涯

通称は半左衛門。
信秀の八男あるいは九男とも言われているが、生年だけでなく事績も不明である。

ほぼ唯一の記録が『信長公記』に記された【長島一向一揆】の項目となる。

長島一揆勢から仕掛けた戦いだった

長島一向一揆は、伊勢に拡大していた勢力で、織田家とは元亀元年(1570年)から対立していた。

キッカケは、この年、浅井朝倉連合軍らと手を組んだ石山本願寺が、織田信長を相手に挙兵したことで、延暦寺も巻き込み【織田包囲網】を敷いている。
長島一向一揆も本願寺の呼びかけに応じて挙兵したのだった。

一揆勢は手始めに織田信興を討ち取る。

織田信興とは:信長の弟、長島一揆勢に攻められ自害する

尾張に接する伊勢の宣戦布告とあって信長もこれを軽視することはできず、翌年の元亀2年(1571年)、柴田勝家と佐久間信盛ら2万の軍で攻め込むが、ほとんど戦果を挙げられずに帰陣した。

長島城は、木曽川・長良川・揖斐川いびがわが合流して伊勢湾に注ぎ込む中洲にあり、非常に攻めづらい立地だったのである。

地図で確認してみよう。

赤の拠点が長島城で、周囲には十数ヶ所の城砦じょうさいが設置されている。

攻める織田方からすれば非常に厄介な天然の要塞でもあり、そのすぐ上にある黄色い拠点(左)の小木江城こきえじょうが1570年一揆勢に攻められ、城主・織田信興が自害へ追い込まれていた。

織田全軍で長島を包囲

信長は、天正元年(1573年)9月に再び伊勢へ攻め込んで長島城の周辺を威圧し、そして迎えた天正2年(1574年)、このときは織田軍最大規模の兵力でもって周辺一帯を取り囲んだ。

織田秀成もこのとき参加。
信長嫡男・織田信忠の御供衆として戦った。

ちなみに信忠が率いていた御供衆は織田家の親類縁者(連枝衆れんししゅう)も多く、

・織田信包(信長弟)
・織田長利(信長弟)
・織田信成(信長いとこ)
・織田信次(信長叔父)

なども揃っていた。

戦いは熾烈を極めた。
降伏を願い出た一揆勢に対し、信長がこれを認めず鉄砲で虐殺したため、敵も死物狂いで織田軍に襲いかかり、激戦の中で織田秀成も戦死してしまったのだ。

他に織田信広、織田信次、織田信成も討ち死にしており、信長にとってはほろ苦い勝利になった。

なお、この長島一向一揆では、激戦の末、長島城周辺の城砦に火をかけ、男女2万人の信徒を虐殺したことで有名である。

「信長=残虐」という図式にもなりがちだが、

・そもそも長島一向一揆から戦を仕掛け
・信徒を解き放てば次は石山本願寺で敵対される

という事情もあり、現在の価値観から単純に【悪】だと決めつけるのは早計であろう。

織田秀成の合戦歴

※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます

◆長島一向一揆(1570-1574年)

参考 長島一向一揆武将ジャパン

織田秀成と関係の深い武将

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◆織田信長
◆織田信秀
◆織田信忠(信長嫡男)
織田信広(信長兄)
織田信興(信長弟)
◆織田信包(信長弟)
◆織田長利(信長弟)
◆織田信成(信長叔父)
◆織田信次(信長叔父)

関連or参考記事

参考 織田信長武将ジャパン

文:五十嵐利休(武将ジャパン
絵:小久ヒロ

参考文献

 

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