織田信長の弟(兄説もあり、詳細は後述)。
守山城主に就くと、家臣の坂井孫平次と男色の間柄になり重用。
別の家臣・角田新五に恨まれ、切腹へと追い込まれた。
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織田信時の基本DATA
父:織田信秀
母:不明
生没年:不明-1556年
活動エリア:東海地方
織田信時の生涯
織田信時は1555年、守山城主に就任した。
織田信長が謀略で奪取したばかりの清州城からは、直線距離で東へ4kmほどの位置。
一応地図で確認しておくと、
黄色の拠点が清州城で、青が守山城と、まさに目と鼻の先である。
城主が逃げ出してしまった守山城
この守山城。
以前は、信長叔父の織田信次が城主だったが、あるトラブルを抱えて城主交代と相成った。
そのトラブルとは?
1555年6月、織田信次の家臣が誤って信長の弟・織田秀孝を矢で射殺してしまい、報復を恐れた信次が逃亡してしまったのだ。
※詳細は以下の記事へ
織田秀孝とは:喩えようのないほど美しい顔を持つ信長の弟城主不在となった守山城。
次に誰が守るか?
と、ここで「守山城の城主は信時様で」と推挙したのが織田家の重臣・佐久間信盛であり、かくして織田信時の新城主と相成った(信盛はこのとき100石の知行を加増されている)。
しかし、信時もまたトラブルによって城主の座を失う。
家臣・角田新五の謀反によって自害へ追い込まれてしまったのだ。
いったい何が起こったのか?
軽んじられた家臣が謀反を決意
織田信時は、城主就任後から家臣・坂井左衛門の息子である坂井孫平次と【男色】の間柄になっていた。
当時、主君と家臣が同様の関係に至ることはさほど珍しくなく、陶晴賢と大内義隆や、他ならぬ織田信長と森蘭丸(森成利)の例もある。
しかし、信時の場合はいささかやり過ぎた。
孫平次を重用するだけでなく、マジメに働いていた角田新五を軽んじて扱うようになったのだ。
恨みが募った角田は、謀反を決意。
「城の堀や柵が壊れましたので修理します」として織田信時を誘い出すと、土塀の崩れたところから兵を引き込んで信時へ襲いかかり、自害させたのだった。
信長としては、またしても弟を殺されたわけである。
では、謀反人の角田をどう扱ったのか?
と、これが『信長公記』には記載が無く、
・叔父の織田信次を赦し、守山城主へと復活させた
とだけ記されている。
残念ながら詳細は不明だ。
信時は信長の兄だった?
江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』によると、織田信時(安房守)は信長の弟であり、織田信秀の六男と目されていた。
しかし、雲興寺宛の禁制に残された署名には「織田安房守秀俊」と記されている。
・信時
と
・秀俊
いずれも安房守であり、同一人物の可能性が極めて高いという指摘がある。
あらためて『信長公記』を見てみると、その中で信時は
・織田信広の弟である安房守は頭脳明晰であり
と記されている。
織田信長の弟ではなく、わざわざ織田信広の弟と書かれているのは、信広と母が同じで、信長とは異母兄弟にあたるからであろう。
活躍時期を考えても、信長より若い弟とは考えにくく、ゆえに「弟」とはあくまで対信広から見た場合であって、信長から見ると「兄」の方が自然となる。
織田信時の合戦歴
※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます
◆不明
織田信時と関係の深い武将
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