織田長利とは?
織田信長の末弟。
長島一向一揆に従軍し、京都御馬揃えでも連枝衆として参加。
本能寺の変で、信長の嫡男・織田信忠と共に二条城で討死する。
※本サイトは【各種参考書籍→link】を基に記事作成しております
織田長利の基本DATA
父:織田信秀
母:不明
生没年:不明-1582年
活動エリア:東海地方
織田長利の生涯
織田信長の弟で、信秀の十一男や十二男とされる。
その活躍はあまり知られておらず、『信長公記』では以下、3つの項目で名前が登場する。
・長島一向一揆
・京都御馬揃え
・本能寺の変
以下、簡単にそれぞれの事象を解説しておくと……。
長島一向一揆
長島の一向一揆勢と織田家が戦闘態勢に入ったのは1570年のこと。
長島の本家にあたる石山本願寺が信長との敵対姿勢を鮮明にすると、織田家を撹乱するため、拠点攻撃を始めたのがキッカケだった。
攻撃対象の中には、信長が信頼する弟・織田信興の守る小木江城もあり、一揆勢に攻められると同城で自害へ追い込まれている。
※赤い拠点が一揆勢の本拠地・長島城で、黄色の拠点が織田方の小木江城(左)と清州城(右)
この長島一向一揆に対し、信長サイドから大きな攻撃を仕掛けたのは合計3度になり、最初に攻撃を受けてから4年かけて滅亡へ追い込んでいる。
その流れはざっと以下の通り。
①第一次 長島一向一揆の戦い
元亀2年(1571年)5月
→柴田勝家と佐久間信盛の織田勢2万で攻撃するも、中洲に散った敵の拠点を包囲することができず、撤退を余儀なくされ、このとき勝家が負傷する
③第三次 長島一向一揆の戦い
天正二年(1574)年7月
→武田信玄の死亡によって軍団の移動が容易になった織田軍。このときは織田家中の主要メンバー総出で伊勢へ進軍し、敵を殲滅させた。砦に残った2万人の信徒を焼き殺しているが織田軍も被害甚大で、織田信広や織田秀成など、信長の連枝衆が戦死している。
京都御馬揃え
京都御馬揃えとは、文字通り「馬を揃えて」市街を進む【軍事パレード】である。
それを京都で行い、正親町天皇も大いに喜んだというもので、天下人・織田信長の権勢を広く世に認知させるイベントともなった。
このとき織田長利は、織田一門の中に名を連ねている。
パレードに参加した部隊の詳細は次の通り。
【京都馬揃えの陣容】
◆一番部隊……丹羽長秀ほか
◆二番部隊……蜂屋頼隆ほか
◆三番部隊……明智光秀ほか
◆四番部隊……村井貞成ほか
◆織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎
◆公家衆……近衛前久ほか
◆旧幕臣衆……細川昭元ほか
◆九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆
◆十番部隊……柴田勝家・前田利家ほか
◆十一番部隊……お弓衆百人
【参考】
参考 京都御馬揃え武将ジャパン織田一門の中で、中心は嫡男の織田信忠。
信長の兄弟や息子など、血縁関係の濃い親類を【連枝衆】といい、信忠傘下に名を連ねている。
織田長利もその一人であった。
本能寺の変
戦国史の中でとりわけ注目度の高い、この変。
織田長利は二条城で自害した織田信忠と共に死亡した。
中世研究者の呉座勇一先生によれば、本能寺の変に対する学術的な関心は低く、
【織田信長が明智光秀に討たれ、紆余曲折を経ながら豊臣秀吉へ権力移譲された】
という政治史の流れを掴めば終わるという。
※参照『陰謀の日本中世史 (角川新書)』(→amazon)
にもかかわらず、世間一般の興味は高く、特に
【なぜ光秀は信長を殺したのか?】
という点は今なお興味の尽きるところがない。
光秀の動機については、例えばウィキペディアでも57もの説が提示されているほど白熱化しており、しかし、同時のその殆どが否定されていて、未だ確たる決定はされていない。
有力だと思われる考え方はある。
興味のある方は以下の記事でご確認を。
織田長利の合戦歴
※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます
◆長島一向一揆(1574年)
◆本能寺の変(1582年)
織田長利と関係の深い武将
※リンク先のあるものは該当記事へ飛びます
兄:織田信広
当人:織田信長
弟:織田信行(織田信勝)
弟:織田秀孝
弟:織田信包
弟:織田信治
弟:織田信時(織田秀俊)※兄説も
弟:織田信興
弟:織田秀成
弟:織田信照(中根信照)
弟:織田長益
弟:織田長利
妹:お犬の方(細川昭元妻)
妹:お市の方
妹:長栄寺殿
関連or参考記事
参考 織田信長武将ジャパン【参考文献】
コメントを残す